2021年


ーーーー2/2−−−− 週に二日の蕎麦打ち


 
昨年12月に購入した蕎麦打ち道具を使って、地粉で蕎麦打ちを数回行った。地粉は地元安曇野産の蕎麦粉で、地域の農産品販売所で手に入る。打ち粉も、つなぎに使う小麦粉も、その店で購入する。小分けして売っているから、便利ではあるが、地粉はけっこう値が張る。練習のため回数を重ねれば、蕎麦粉の代金が馬鹿にならない。「もっと安い蕎麦粉は無いかしら」とカミさんは言った。

 ネットで安い粉が見付かった。東京にある蕎麦粉商の老舗で、国産の高級蕎麦粉を扱う傍ら、海外で契約栽培で作っている安価な蕎麦粉も売っている。北米産のものは、単価が地粉の半額だった。その安さに惹かれて、10kgの袋を1ヶ注文した。個人で取り寄せる量としては多すぎる気もしたが、それより小さい袋は無かったのである。

 届いた粉を早速使ってみた。封を切ると、甘い香りがプーンと立った。これが蕎麦の香りなのかと思った。実はこれまで、蕎麦の香りというものをはっきりと認識したことは無かったのである。外国産の蕎麦粉で初めて香りを知るというのも、皮肉なものである。それにしても香りが強過ぎて、鼻に付くくらいだった。

 粉は更科系と言うのか、白っぽいもので、とても粒が細かかった。水を加えて練ってみると、滑らかで良く延びた。打ちやすい粉というレビューがあったが、その通りという気がした。出来上がった蕎麦は、美味しかった。地粉と比べると、風味に違いがあるので、好みで分かれるだろうが、こちらの方が美味しいと感じる人も居そうな気がした。

 さて、値段の割には使い易く美味しいという事が分かって安心したのだが、問題はどのように保存して、どれくらいの期間で消費するかという事。蕎麦粉は日が経つとどんどん劣化するので、この二つは重要なポイントなのである。保存の方は、一回で使う量の400gずつで分けてビニール袋に入れ、冷凍することにした。10kgを400gずつ分けるから25袋。週に2回蕎麦打ちをするとして、3ヶ月ぶん。3月末には消費し切る計算だから、まあ良しとしよう。

 粉を購入してから一週間ほど経った日、購入した商店から電話があった。製粉機の点検をしたら、部品が一部破損しており、商品の粉に異物として混入している可能性がある。我が家に届いた粉はそのロットなので、お知らせしたと言うのである。我が家ではふるいにかけてから使っていると言うと、そのように使って貰えば問題は無いが、改めて同じ量の粉を送るとの話だった。その旨了解はしたが、これは嬉しいような、困ったような話である。さらに3ヶ月蕎麦を作り続け、食べ続けなければならない。ゴールは梅雨の時期になりそうだ。

 かくして、週に2回、水曜日と週末に蕎麦を打つという方針が確定した。400gの蕎麦粉につなぎ100gを加えて打つと、5人前くらいの量になる。カミさんと二人で食べ切れる量ではないから、半分をその場で食べ、残りを翌日食べることにする。つまり週に4日蕎麦を食べることになるのだが、それが今後半年間続く。

 蕎麦は健康に良い食品だから毎日食べると言う人も居るらしいから、週に4日食べるのも悪くは無いだろうが、想像しただけで、なんだかげんなりした。




ーーー2/9−−− 出陣の曲


 
若い頃に買ったステレオアンプがある。長いこと使ってない。二年前に友人が来た時に、レコードを聴こうとして、スイッチを入れてみたが、電源が入らなかった。修理を試みようかとも思ったが、放置したままになっていた。最近になって、それは故障ではなく、電源コードが抜けていたからだと判明した。これが元エンジニアである。

 復活したアンプを使って、このところレコードを聴くようになった。40年ちかく前に買ったレコードプレーヤーも健在である。これは凄い事だと思う。構造がシンプルだということもあるが、現代の家電製品でこれほどの耐久性を有する物は少ないだろう。

 百数十枚あるレコードをめくってみると、懐かしいものが見付かる。レコード盤をターンテーブルに置いて針を落とすと、長い年月を飛び越えて、若かった頃に戻ったような気持ちになる。そんな中で、特別の感慨を持って聴く曲がある。山下達郎のアルバム「Melodies」のB面最初の曲「メリー・ゴー・ラウンド」である。

 次女は小学生のころ卓球をやっていた。町の少年少女卓球サークルに所属し、週3回の練習に通った。休日には大会に出た。地域割りの大会の他に、○○杯などという大会があり、県外にも出向いた。シーズン中は、しょっちゅう大会があるという感じだった。

 大会当日は、朝早く起きて自宅の卓球台で練習をした。ウオームアップである。その時にBGMとしてかけたのが、この曲であった。リズムが明瞭で、ノリが良く、いかにもアドレナリンが出そうな曲が選ばれたのである。

 この曲を聴きながら練習をし、調子が上がったらラケットを仕舞って朝食を取り、出発する。私たち親子にとって、出陣の朝の定番曲であった。今でもこの曲を聴くと、あの頃の興奮が蘇り、たまらなく懐かしい。

 このようにして毎回大会に臨んだわけだが、ほとんどの大会で次女は賞状を持ち帰った。その中で一番多かったのは優勝の賞状だった。




ーーー2/16−−− 東京で一番美味い酒


 
東京で一番美味い酒を飲ませる店、と言われる小料理屋に行ったことがある。会社の同僚三人と飲んだのだが、席は二階の座敷を予約した。それより前に友人と出掛けたことがあったが、開店直後と思われる時間でも、一階のテーブル席は満員だった。隅にいくつかベンチが置いてあり、順番待ちの人がずらりと並んでいた。一人の年配の男性は「こんなのは当たり前だ。いくらでも待つよ」といった感じで、悠然と座っていた。

 この店のことは、父から教わった。東京で一番という評判も、父から聞いたことである。父に連れられて飲みに行ったこともある。その当時は、酒の味など良く分からなかったから、これと言った記憶は無い。それでも話題性があるので、名前だけは憶えていた。そこで、思い出したように足を向けたりしたのである。

 座敷に構えた我々の前に、酒が運ばれてきた。お互いに注ぎあって、まずは乾杯。グイッと飲み干すと、一同は首をかしげた。「これって、酒?」という言葉が頭に浮かんだ。まるで水のようなのである。首をかしげながら、杯に注いでは飲むを繰り返し、あっという間にお銚子がゴロゴロ転がった。これが淡麗辛口というものだと、後になって思い当った。酒は秋田の銘柄だった。この店は、その銘柄しか置いていない。

 それにしても、「東京で一番」という評判は興味深い。酒は購入して提供するものだから、別の店が同じ酒を仕入れて出せば、そちらも一番になるはずだ。そんな店がたくさん現れれば、もはや順位付けなど無意味である。

 ここから先は私の想像であるが、現代では一般家庭でも飲まれる純米吟醸クラスの酒を、この店では出していたのではなかろうか。あまたの居酒屋、料理屋が、酒の品質に無頓着で、特級、一級などと肩書は立派でも添加物だらけの酒を平気で出していたとすれば、まともに作られた酒を飲ませる店は際立つ。そういう時代だったのではあるまいか。




ーーー2/23−−− 貰い上手


 
外国の映画などで、こんなシーンを目にしたことがある。美しい女性が、バーのカウンターの席に着く。何を注文しようかと思案していると、彼女の前にバーテンが一杯のカクテルを置いた。「これは?」と聞くと、バーテンは「あちらの方からです」と、カウンターの端の席に座っている男性を指差した。男性は慣れた仕草で、彼女に会釈をする。

 私の姉も、同じような経験があると、若い頃自慢をしていた。ただし、場所はバーではなくラーメン屋。物はカクテルではなく、餃子。ラーメンを注文して食べていると、店員が餃子を持ってきた。「注文していませんよ」と言うと、「いえ、あちらの方からです」と返し、カウンターの端にいる男性を指した。姉が「いいんですか?」と声をかけると、「どうぞ」と答えて、その男は立ち去ったとか。「私けっこうこういう事があるのよ」と姉は言った。自分が男性にモテるということを自慢したかったようだが、フリーランス暮らしの姉の苦しい生活が身なりに現れ、同情を誘うのではないかと私は思った。もちろん口には出さなかったが。

 見知らぬ他人から食べ物を恵まれる機会が多い人、貰い上手とも呼ぶべき人は、世の中に居るようである。私の大学山岳部時代の先輩にもそういう人がいた。

 ある遠い山行の帰りに、その先輩と列車に乗った。長い道中の雑談の中で、そんな話題になった。「おれは知らない人から食べ物を貰うことが多いんだ」と言い、過去にあったケースをずらずらと述べた。当人は得意げだったが、私はさしたる関心も無く、うわの空で聞いていた。その話題が終わり、沈黙が訪れ、私は窓の外の景色を眺めていた。しばらくして先輩を振り返ると、大福餅をほおばっていた。近くの席に座っていた、年配の婦人から貰ったものだった。私はなるほどと納得した。